これまで考えることをたくさんしてきた。
人に好かれるための方法を考えてきた。
得意教科を磨いて良い大学に入った。
考えることはすべてだと思った。
けれどもすぐに思い知った。
「なぜ?」と問う癖は染み付いて、私の人生を締めつけた。
猛烈にプールで泳ぎたくなってバスに乗って市民プールまで行ったのに、着替えてプールサイドまで行ったら「どうしてこんなことしなくちゃいけないんだろう」と思った。
みんなで音楽をするのが好きだったのに、小さくはない楽器を持って移動することを気にするようになった。
友人が美容をとても気にしているので、私もきちんとしようとお菓子を食べるのをやめたり規則正しい生活を送ったりしてみたら、友人たちは意外とお菓子を食べていたり、夜更かしをしていたりした。
私の考えていること、やりたかったこと、それらは何をやっても水の泡のように感じた。
大袈裟な感情の下に広がった風呂敷など空洞の大理石と同じだ。空っぽの人間はハンマーで叩かずともお湯をかければ溶けてなくなる。今も花柄の靴下を眺めてはピンクのバラと添えられた葉に何かの恐怖症を発動しそうだ。味方が欲しいのにどんな言葉も受け付けない、すべてを疑っては灰色のヴェールをかけて泣き寝入りをする。
こんな私を助けてくれる王子様がやってくると心の隅では本気で信じていて、馬鹿みたいだなと思う。20年も生きて、おとぎ話と現実の区別もつかない。喉の奥が苦しくて、差し出された手にも気付かない。
音楽に命を捧げるような日々を送っていた時間が長すぎて、文章を紡ぐのはもはや論理的な作業になっている。感覚的なものではなくなって、感覚的ではないものは私のものではないような気がして、頭と体がバラバラになる。
ひとつの言葉ではまとまらない。たくさんの言葉をパッチワークのように繋いで、それでも足りないような気がする。部屋じゅうの壁に色とりどりのパッチワークを掛けた想像をする。南国みたいでいいかもしれない。インドで買ってきた香水の匂いがしそうだ。
自分の世界がまわりの当たり前と違った時、私は口を噤むようになった。手の施しようがなかった。冷やしたマンゴーをひとかけ口に入れて、ひどくなった頭の中のおもちゃ箱を開ける。
私だって王子様を待っている。一緒におもちゃ箱を楽しんでくれる王子様を。もう誰も見向きもしなくなった、あの日あの子に譲ったおままごとのフライパンで、一緒に遊んでくれる王子様を待っている。小さなお部屋の扉に、しっかりと鍵をかけて。